専門書は何故分かりにくいのか?わかりやすさと厳密さの天秤

 大学で手に取る書籍は必然と専門書が多くなり、その難解さや授業のまわりくどさに「もっとわかりやすくしてくれよ……」と嘆く学生は多いだろう。勉強好きだと自負している私ですらも、そんな学生のうちの一人であった。

 

 しかし、大学を卒業してから再び同じ分野の勉強をし直す機会があり、放送大学の教科書を手に取って思ったのは「これは参考にならない」だった。

 ※放送大学の教科書を批判するつもりは毛頭ありません。このような表現をした理由はきちんと後述致します。

 結局、ラジオを聴いた後に手元で開くのは、大学の時に購入した専門書であったのだ。

 

 当時は文句を垂れていたが、今となっては分かる。専門知識としての物理では物事を厳密に教えねばならず、わかりやすさのために“敢えて厳密さを欠いた”説明をしてはいけなかったのだと。

 

 物理系の学部の出なので、床を転がるボールを例にとってみる。もちろん大学以前はせいぜい摩擦程度のことしか学ばないが、それすらも「摩擦をわざわざ考えるの面倒くさい」「摩擦さえ無ければ理解は簡単なのに」と思ったことはないだろうか?

 しかしいざ自分がそれを習得した後に、年下の子に床を転がるボール(摩擦なしという理想的な状況)についての問題を教える場合「本当はこれは摩擦も考えなきゃならないんだけど……」とモヤモヤしたことはないだろうか?

 

 つまり、分かりやすく教えるためには“省略”が必要なのだ。敢えて摩擦を考えずにボールの動きを勉強する→摩擦は考えるが、敢えて微分方程式を使わずにボール(質点)の動きを勉強する、といったように。

 敢えて“省略”して“厳密性を欠いたもの”を、私たちは「分かりやすい」と受け取るのだ。

(もちろん、なるべく厳密性を維持した説明が良いと言われればそうなのだが……)

 

 大学に進学したようなその分野を専門に扱う者に対して、そうした厳密性を欠いた分かりやすさに甘えた説明というのは、むしろ優しくないのである。いざ知識を扱うという段階で太刀打ちできない学生が育ってしまうからである。現実の物理現象を解析する際に、厳密性を欠いた知識では間違った理解をしかねないばかりか、入手したデータなどはまず様々なノイズを取り去ってからやっと知識を用いた解析が始まるのだ。つまりそのスタートラインにすら立てない可能性もある。

 難解ながらも厳密な説明で、学問として物理を教えてくださった教授たちに、今の私は感謝の気持ちしかない。

 

 しかし、では厳密であればあるほど良いのかと言われれば一概にそうとは言えない。先ほどの話はあくまで「その分野を専門にする学生に対して」のものだ。

 

 中学生や高校生などにそんな高度な知識を要求してしまえば、学ぶこと自体を放棄してしまうであろう。それは本末転倒である。

 またこれは、その分野を専門としなかった大人も同じである。私であれば(社会科が昔から苦手だった故に)人文科学の知識はほとんどない。そうした人が、まずその学問について“ざっくりと分かる”ためには、書店に並ぶ参考書や放送大学の教科書がとても良い。

 ちなみにこれは完全な主観だが、専門外の授業を受けていて思うのが、放送大学の授業や教科書は一見簡単そうに見えて専門性も兼ね備えている。つまり、私はかなり苦労した……。しかし完全に専門外の自分が、それなりの専門性のある授業をここまで理解できてしまうというところに、放送大学の授業の質の高さやバランスの良さが伺えて素晴らしいなと感嘆した。

 

 とにかく、学問の入り口という点においては分かりやすさのための“省略”はむしろ不可欠なのだ。うっすらとした記憶だが、高校の頃の恩師も「分かりやすい授業をするには、どれだけ省くかが重要」という風におっしゃっていた。たしかに中学や高校の教員は、学問の入り口に立つ(しかも全員が勉強意欲のある生徒ばかりではない)相手に物事を教えなければならないのだから、その点においてはプロだろう。

 私は、上手く省略された説明によって学問の入り口に立たせてもらい、厳密性の高い説明によって物理を専門とする人間になれたのだ。

 

 しかしながら、基本的には学習者から好意的に思われずに分かりにくいと愚痴を溢される専門書……。なかなか、切ない立場である。