なにも成長していない気がする年末

 2023年が終わろうとしている。

 なんだか何も成し遂げていない気がして2023年の振り返りなんかをやるも、やはり成長した感じが全くしない。

 

 でも成長した感じがしないだけで、個人的には激動の一年だった。

 ここは詳しくは書かないが、うつ病治療4年目にして最大の気分の落ち込みを経験し、もう生きるしかないと開き直った。正直このエピソードだけでかなり私という人物が変化した感覚はあるが、他にも通院時のカウンセリングを増やして自分の歪んだ認識と向き合ったり、自分から勝手に遠ざけていた友人たちと腹を割って話す機会があったりと、成長したわけではないのに変化の度合いは凄まじいというようなイベントが多々起こった。

 

 治療も進んで、これから出来ることを増やしていくのであろう来年。なんなら引っ越しだってするかもしれないし、その引っ越し先で働く必要が出てくるかもしれない。障害者手帳の申請もし、結局年内には結果が分からなかったからそれも来年どうなるかが判明する。

 

 成長はしていないが変化した分、ただの現状維持では無い。でも変化したことによる自分への影響は今のところ見られないし、2023年に頑張って起こした行動の良し悪しも来年にならないと分からない。

 

 そんな不透明な未来だが、去年までの数年間は“お先真っ暗”と希望も予定もなかったのだ。

 そう思えば、やっぱり成長はしているのかもしれない。

 

青信号に気づかされた一面の“赤”

 

 あまりにもかけていなかったので、下書きに封印していたこちらを。

 

 交差点で待っていると、全ての信号が赤になる瞬間がありますよね(田舎なだけかもしれませんが…)。

 

 夕方も過ぎ、電灯やコンビニの照明を頼りに帰っている中で、視界の信号が全て赤になる。その直後に変わった青信号が、やたらと目立って見えたのです。

 

 それもそのはず。夜の交差点の灯りはほとんどが暖色系。車のライト、お店の明かり、居酒屋の提灯などなど、冷たさを感じる灯りはほとんどない。かといって温かさを感じるわけでもなく、強いて言えば千と千尋の世界に迷い込んだような………。

 

 普段はそうでもないからこそ余計に不思議です。人を呼び込もうとする気配がするからでしょうか。未だに盆供養に提灯を使うイメージの強い田舎民だからでしょうか(毎年盆踊りしてました)。

 

 ゾッとしながら帰宅した一夜のお話でした。

 

 

専門書は何故分かりにくいのか?わかりやすさと厳密さの天秤

 大学で手に取る書籍は必然と専門書が多くなり、その難解さや授業のまわりくどさに「もっとわかりやすくしてくれよ……」と嘆く学生は多いだろう。勉強好きだと自負している私ですらも、そんな学生のうちの一人であった。

 

 しかし、大学を卒業してから再び同じ分野の勉強をし直す機会があり、放送大学の教科書を手に取って思ったのは「これは参考にならない」だった。

 ※放送大学の教科書を批判するつもりは毛頭ありません。このような表現をした理由はきちんと後述致します。

 結局、ラジオを聴いた後に手元で開くのは、大学の時に購入した専門書であったのだ。

 

 当時は文句を垂れていたが、今となっては分かる。専門知識としての物理では物事を厳密に教えねばならず、わかりやすさのために“敢えて厳密さを欠いた”説明をしてはいけなかったのだと。

 

 物理系の学部の出なので、床を転がるボールを例にとってみる。もちろん大学以前はせいぜい摩擦程度のことしか学ばないが、それすらも「摩擦をわざわざ考えるの面倒くさい」「摩擦さえ無ければ理解は簡単なのに」と思ったことはないだろうか?

 しかしいざ自分がそれを習得した後に、年下の子に床を転がるボール(摩擦なしという理想的な状況)についての問題を教える場合「本当はこれは摩擦も考えなきゃならないんだけど……」とモヤモヤしたことはないだろうか?

 

 つまり、分かりやすく教えるためには“省略”が必要なのだ。敢えて摩擦を考えずにボールの動きを勉強する→摩擦は考えるが、敢えて微分方程式を使わずにボール(質点)の動きを勉強する、といったように。

 敢えて“省略”して“厳密性を欠いたもの”を、私たちは「分かりやすい」と受け取るのだ。

(もちろん、なるべく厳密性を維持した説明が良いと言われればそうなのだが……)

 

 大学に進学したようなその分野を専門に扱う者に対して、そうした厳密性を欠いた分かりやすさに甘えた説明というのは、むしろ優しくないのである。いざ知識を扱うという段階で太刀打ちできない学生が育ってしまうからである。現実の物理現象を解析する際に、厳密性を欠いた知識では間違った理解をしかねないばかりか、入手したデータなどはまず様々なノイズを取り去ってからやっと知識を用いた解析が始まるのだ。つまりそのスタートラインにすら立てない可能性もある。

 難解ながらも厳密な説明で、学問として物理を教えてくださった教授たちに、今の私は感謝の気持ちしかない。

 

 しかし、では厳密であればあるほど良いのかと言われれば一概にそうとは言えない。先ほどの話はあくまで「その分野を専門にする学生に対して」のものだ。

 

 中学生や高校生などにそんな高度な知識を要求してしまえば、学ぶこと自体を放棄してしまうであろう。それは本末転倒である。

 またこれは、その分野を専門としなかった大人も同じである。私であれば(社会科が昔から苦手だった故に)人文科学の知識はほとんどない。そうした人が、まずその学問について“ざっくりと分かる”ためには、書店に並ぶ参考書や放送大学の教科書がとても良い。

 ちなみにこれは完全な主観だが、専門外の授業を受けていて思うのが、放送大学の授業や教科書は一見簡単そうに見えて専門性も兼ね備えている。つまり、私はかなり苦労した……。しかし完全に専門外の自分が、それなりの専門性のある授業をここまで理解できてしまうというところに、放送大学の授業の質の高さやバランスの良さが伺えて素晴らしいなと感嘆した。

 

 とにかく、学問の入り口という点においては分かりやすさのための“省略”はむしろ不可欠なのだ。うっすらとした記憶だが、高校の頃の恩師も「分かりやすい授業をするには、どれだけ省くかが重要」という風におっしゃっていた。たしかに中学や高校の教員は、学問の入り口に立つ(しかも全員が勉強意欲のある生徒ばかりではない)相手に物事を教えなければならないのだから、その点においてはプロだろう。

 私は、上手く省略された説明によって学問の入り口に立たせてもらい、厳密性の高い説明によって物理を専門とする人間になれたのだ。

 

 しかしながら、基本的には学習者から好意的に思われずに分かりにくいと愚痴を溢される専門書……。なかなか、切ない立場である。

酔うのは良いこと?悪いこと?

 一時期、うつ病による気分の落ち込みにより、アルコール依存と言われても仕方ないほどお酒にのめり込んでいたわたし。

 

 最近は、めっきり飲まなくなった。

 

 でも、突然「お酒を飲まなきゃやってられない」となってしまう時がある。

 

 そういう時は、せめて後の自分が報酬を得られるようにと、その時に感じたことや考えとして思い浮かんだことをメモするようにしている。

 それだけでも昔の“酔って、暴れて、ワァー!”よりは成長していると思いたい。

 

 しかし、果たしてこの「お酒を飲んだ時にしか本音を出せない」という強迫観念はなんなのだろうと毎回思う。父親と祖父(私は父方の祖父母とずっと同居生活であった)がそのようなことを言っていたり、なんならそうした性格だったからかもしれない。

 実際、娘のわたしから見て「酔った時の父親の方が接しやすい」と思ってしまったのも本当である。

 

 「酔った時の方が接しやすい」は、大学生になってから私自身も言われてしまった。なんなら家族までそう言っていて、普段のわたしはそれほどに取っ付きにくかったのかと思った。

 しかし酔った時にメモして数年、酔った時の言葉はその時の感情を露わにしただけのものだった。つまり本音ではなく、普段は感情を伝えられない人間がその時だけ攻撃的になる、それだけの現象が起こっていたことに気づいた(と書いている今すらも飲酒中なのが救えないが)。

 

 酔うことに固執するのはつまり、アルコールに依存しているということ。しかし、その裏には「酔っている時の方が好き」などという言葉が背景になっていたりする。もちろん言い訳にするのは忍びないが、せめて、それによって自分がとんでもなく追い詰められてしまった時には、それを批判する権利くらいは許してほしいものだ。

 

 by 酔っ払い

 

 

 

混んでいる電車は“感情”で溢れている

 金曜の夜の電車は混んでいる。

 混んでるだけじゃなく、やたらとうるさい。

 

 模試がめんどくさいと話す学生から、疲れきって首をかくんと落とすスーツ姿の男性、半袖のやたら活力のあるおじいさん……。仕事終わりの人だけを見ても、死んだ目をしている人から、飲みに行くのか遊びに行くのか兎に角元気そうに話す人たちまで様々だ。

 

 わたしはちなみに通院の帰りだった。診察とカウンセリングを受けた後なので、スマホをいじる気力すらなく、たぶん死んだ目をしていたと思う。

 

 耳にまとわりつく話し声だけでも頭がおかしくなりそうだったので、耳栓がわりに肌身離さず持ち歩いているイヤフォンで好きな音楽をかけていたが、そこでふと思ったこと。

 

 きっとこの中にも私と同じように、音楽を聴いたり動画を見たりしている人がいるのだろう。

 

 私はそれを考えた途端にくらっとしたのだ。

 

 ひと車両のうちわずか一角に満たない視界のなかでさえ、それぞれのイヤフォンから流れる音も合わせれば、とんでもない大音量になると気づいて。

 

 そんなことあり得ないから考えなくていいじゃないかって意見ももちろん正しいけれど、私はどうしても、その音の分だけ、なんならそれ以上にここにいる人たちの感情が溢れている車内に疲れて仕方なかったのだ。

 

 誰かはきっと不快な思いをしているし、疲れ切ってそんなことも考えられない人もいるかもしれないし、それを問題ともせず動画に没頭している人もいるかもしれない……。そう考えてみれば、地獄だ。

 

 まぁこんな愚痴を長々と綴ったが、電車の中では静かにしようと、そう心に決めただけの話です。

 

 

 

 

自己紹介

 

こちらのブログ管理人の蒼桜(あお)と申します。

 

この記事は、蒼桜がはてなブログを開設して初めてのものとなります。

そこで

    • 蒼桜について
    • ブログで綴っていくこと
    • もしかしたら記事にしていくかもしれないこと

をまとめました。

 

蒼桜について

 うつ病で療養中の20代女性。色んな事に挑戦できるくらいには回復してきたので、今回ブログを立ち上げてみることにしました。

 大学生のころは理工系の学部で、主に物理を勉強しておりました。勉強が好きということもあり、真面目に授業を受けていたタイプです。大学を卒業した後も、本やラジオでジャンル問わず勉強を続けています。

ラジオ専用勉強ノート

 ちなみに他の人と比べてかなり多い単位数を取り、中高の数学・高校の理科の教員免許を取得しました。本当は中学の理科も取りたかったのですが、うつ病のため惜しくもあとひとつ足りずに取得が叶いませんでした。

 趣味は 読書・科学館巡り・MinecraftポケモンGO・麻雀(スマホアプリのみ) など。料理を作るのも好きですが、今は修行中です。色んなものに手を出す好奇心旺盛な人間です。

 

ブログで綴っていくこと

 こちらは日記として、その日の出来事や読んだ本、ふとしたつぶやきを綴っていきます。お出かけした時には、旅行記のように記事としてまとめたいな、などと考えています。

 ブログ初心者なので、色んなジャンルに手を出すような形になるかと思います。もし気になるカテゴリーがありましたら、覗いてくださると嬉しいです。

 

もしかしたら記事にしていくかもしれないこと

 先ほど勉強が好きと申しましたが、そうした日々の学びを日常のものから少々専門的なものまで、備忘録として記事にしてみたいなとも思っています。物理が専門ですが、教職課程をとっていたり、和歌が大好きで小学生の頃に覚えた百人一首を今でも全て言えたりと人よりは幅広めの知識がある(と思っています)ので、それを活かせればなぁなどと考えています。以前読んで書評を書くほど興味深かった一冊をここでご紹介しておきます。

「英語で読む万葉集」 https://amzn.asia/d/2fizHKo

 

 以上が紹介となります。のんびりと更新していきたいと思いますので、よければ覗いていってください。